2011年04月01日

四月一日を迎えるにあたって

変わりたいのならば、こんなところで何をじっとしている!
お前は変わりたいのではなく、まわりがかわるのをただ待っているだけじゃないのか。
自分の足で歩かずに前に進めるわけもないのに、ただ待っているだけ・・・

―グゥ「ジャングルはいつもハレのちグゥ」

たまには普通の日記でも。

四月に入って色々なことが変わった。
僕は浪人になり(所属がない的な意味で)
周りは社会人になり
あるいは進学し
仕送りがなくなり
アルバイトをしている。

僕には夢がある。
僕が自分に設けたタイムリミットはこの一年。
どうにもならなければ、もう、学校の先生になろうと思っている。

とても大事な時間だ。
きっと僕の人生に対して、多大な影響を与える日々になるだろう。
また、そうなることを祈ってるんだ。

祈るだけじゃだめだ。ちゃんと進まないと。
だめだなあ、不安が先にたつ。
先に立たれると、進みづらいんだよ。全く不安の野郎・・・

そのたびにグゥの叱咤を思い出し
怠惰なわが身に鞭を打って、がんばろう。
posted by あいさつ at 23:28| Comment(8) | TrackBack(0) | ひとりごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

住みにくさの向かう先

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

―夏目漱石「草枕」
私の好きな文章の一つです。これ以上に「人の世の住みづらさ」を的確に表現している言葉はないように思います。

「智」に働けば、敵を作ることは明白です。「智」が働かない者からは妬まれます。
「情」はとても危険な感情です。それは例えるなら、つかみどころのない水のようなものです。あるときは冷水であったり、またあるときはぬるま湯であったります。ですから、その時点での「水」を「水そのもの」と判断してしまうことは非常に危険だということです。水(感情)に流された先には何もありません。過去の自分の判断への後悔、合理的思考による自己嫌悪が待っています。
となると、人間は「意地」を通したくなるものであります。「智」という外部に論拠を持つ思考ルーチンと、「情」という内部に根拠を持つ思考ルーチン、その両方が否定された状態というわけですから、もう躍起になるしかありません。自分が「認識」したことが全てであり、自分が「認識」したこと以外に世界はない。(ポスト・モダン的な言語観ですね)そう考えるしかないのですが、そこには自己満足という慰みものしか存在しないというのです。「自分の世界」は「他者」によって認識されることはありません。あなたは周りからの奇怪なものを見るような視線(ジト目でありましょう)を集めることになります。当然、そのような待遇は、住みやすさとはかけ離れたものであります。

そうなったときに「詩が生れて、画(え)が出来る」というのです。これは一体どういうことなのでしょうか。

今後、私が実践してみたいと思うことの一つです。
posted by あいさつ at 03:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 毒吐いて死ぬ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月09日

「ほしのこえ」について

「わたしはここにいるよ。」

―新海誠「ほしのこえ」
私が「ほしのこえ」という作品の存在を知ったのは、つい先日のことである。一度見たそのときから、私は「ほしのこえ」について何か書きたいと強く思うようになった。まだご覧になっていない方は是非一度目を通されることをお勧め致します。

まず主人公である「長峰美加子」は次のような世界観を持っている。「世界っていう言葉がある。私は中学のころまで世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」アニメの冒頭で美加子が「携帯電話」を片手に放つ印象的な台詞である。この台詞から美加子の考え方が浮かび上がってくる。
「携帯電話」は人と人とを結ぶコミュニケーションツールである。人々は携帯電話を通じ、「言葉」を介し、コミュニケーションをとる。「携帯電話」は「言葉」なしには機能しえない。つまりここで美加子は「言葉の外に世界はない」とつぶやいている。言葉によって人は通じ合うことができることを信じている女の子が美加子なのである。

美加子がほのかに恋心を寄せていた「寺尾昇」は、美加子が地球を離れてしばらく経ったとき「ただ美加子からのメールを待つだけの自分になってしまう」とつぶやく。この時点では昇もまた美加子のメール(=言葉)を信じている。メールは当然ながら言葉をもって書かれるものである。美加子の言葉を昇は待っているが、それはその言葉を理解できると思っているからこその台詞である。理解しえないものなら、人は首を長くして待ったりしない。早く届けと念じてメールを送る美加子、そしてそれを待つ昇。このときの二人は「言葉」によってつながることを望み、なにより「言葉」によってつながることができるということを強く信じているのである。

しかしながら「言葉」の力には限界がある。美加子が昇のことを想って送るメール。きっとそこには、底知れないほど昇への愛情がこめられているはずである。また美加子はその昇への愛情を言葉にしようと苦心し、やっとのことで作成したメールであろう。
ところが、それを受け取った昇には美加子の想いが伝わっていない。昇はただ、日に日に間隔が遠くなってくるメールのやり取りに傷心し、一喜一憂しているだけだ。
昇の中で美加子がどんどん遠くなっていく。そしてあるとき、昇は次のような決心をする。「もっともっと心を硬く冷たく強くすること」「絶対に開かないとわかっている扉をいつまでも叩いたりしないこと」「俺は一人でも大人になること」昇はこのとき気付いている。コミュニケーションの目的は相手を真に理解することではない。一定以上の頻度でコミュニケーションをとることで、安心感、お互いに理解し合えている「ような」雰囲気が得られればよいのだ、と。昇はその時点から美加子の「言葉」に縛られていた生活を捨て去る。そして宣言どおり、一人でどんどん大人になっていく。

ただ美加子のほうはどうだろう。
メールが届くのに8年もかかってしまうシリウスへワープした美加子は次のように言っている。「私はただ昇君に会いたいだけなのに」「ただ会って好きって言いたいだけなのに」自分の昇への想いは「好き」という言葉によって完全に届くことを期待している。美加子はまだ「言葉の世界」の内側に存在している。「言葉」によって互いが本当に理解し合えるということを信じている。「相手のことを本当に理解するということを望む美加子」と「そのことができないという気付きを得た昇」。8光年という距離が、二人を切り裂いたのではない。距離によって言葉の限界、相手を理解できる限界が表出し、それによって二人は切り裂かれてしまったのである

「私はここにいるよ」二人のつぶやきで作品は終わりを迎える。「ここにいるよ」相手に自分の存在を知ってほしい、気付いて欲しい。あるいは自分が相手のことをいかに好いているか知ってほしい。でも相手にはそれが届いていない。そんな想いから、身体の奥底から「ぽっ」と出た言葉ではないだろうか。
ここで「『私は』と言っているのは美加子だけである」点に留意する必要がある。美加子は強く念じている、自分の存在に気付いてほしいと。それに対して昇は自分という存在を限りなく透明にしている。自分がここにいることを前面に押し出し主張している美加子と、自分という存在を限りなく透明にすることで理解されない悲劇を回避しようとする昇。二人の決定的な離別は、この認識の違いによるところが大きいのではないだろうか。

「ほしのこえ」が他のラブストーリーのように受容されにくいのは、二人は真に結ばれないという点においてである。しかし私自身、そのこと自体が「ほしのこえ」を「ほしのこえ」足らしめる「固有の価値」であると考えている。
posted by あいさつ at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 毒吐いて死ぬ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月07日

遺伝のこと

血統と言ってもいいかもしれない。

競馬新聞で「超良血!圧巻V!」なんて見出しを見ると、しみじみ思うことがある。僕は良血ではない。底辺の層だと自負している。運動能力と健康について言えば、一族の能力はかなり高いが、頭があまりキレるほうではない。僕は中学生の頃、猛勉強した。これでもかってくらい勉強した。それでも追いつけない壁のようなものを感じた。「頑張れば何にでもなれる」なんて言う甲本ヒロトは嘘つきだ。僕もそう思っていたよ。そうじゃなけりゃやってられないものね。でも何にでもなれなかった。言葉にすると薄っぺらくなってしまうのだけど、本当に見えない壁にぶち当たるのを感じた。鼻から血が出るほどに強くね。

スタートラインが人と違うからって、それを理由にするのは「逃げ」だよ。そう言われた事もある。実際にそうだと思う。自分の生まれを呪っていたって、前に進めるものではない。何の生産性もない。

僕ができることと言えば、精一杯努力して努力して、少しでも上へ向かうこと。

それと、子どもを作らないことだけだ。
posted by あいさつ at 01:42| Comment(9) | TrackBack(0) | 毒吐いて死ぬ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月01日

結局全部・・・

バカがっ・・・・・・! 足らんわっ・・・ まるで・・・!!
わしは・・・・・・
もっと もっと・・・・・ 欲しいんじゃっ・・・・・・・・!
円を・・・! ドルを・・・! ユーロを・・・!
邁進せよっ・・・・・・・・!
掻き集めるんじゃっ・・・・・・! 世界中の金をっ・・・・・・!
人間の欲望は つまるところ金につきるっ・・・!
それを牛耳る金貸しこそ・・・・・・ 王っ・・・・・・!
築くんだっ・・・・・・! 王国をっ・・・・・・!
容赦なく勝てっ・・・! 王国実現のためっ・・・・・・!

―兵藤和尊「賭博破戒録カイジ」
「お金」なんだよね。

みんなお金のために生きてるんだ。お金を得るためにだから苦労もするし努力もする。人が成功したか否かの判断基準は、その人がお金をいかに稼ぐことができたか。そういうことに収束している。僕が今進路のことで悩んでいたり(このまま教師になっていいのか)、自分の力を試してもう一勝負したいと思ったり(作家になりたいという幼少期の夢)するのも、全部このお金ってヤツが絡んでいる。結局のところ悩みの根っこは、「それで生活できるのか」「周りと比べてお金の入りはどうなんだ」ということでしかない。進路について深淵に思考を巡らせているかと思えば、実のところはお金というツールの圧倒的互換性に脳がメロメロになっていただけのことだった。

ああ、汚い!汚いよ!お金っていろんな人の手垢がついている。中には自分の名前を書いたりする人もいる。自分がお金を持っているということは、そのお金は誰かの手から奪い取ったものだ。そのことに気付くんだ。お金は何もないところから「ぽっ」と現れたりはしない。自分が儲けるということは、誰かが失うということだ。そのことについて考えもせず、ただ盲目的にお金を得ることを喜びとし、人間の判断の価値基準とする。何より浅ましいのは、自分もそのシステムの中に組み込まれてしまっているということだ。一体どうしたら抜け出せるんだろう。

いくら集めてもキリがないことはわかっているのに、自分とその家族が養えるだけのお金があればそれで充分なはずなのに。ああ、汚い自分を見ていて腹が立つ。汚い世間を見ていて腹が立つ。お金を儲けること、それ自体は純粋な善ではない。
posted by あいさつ at 14:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 毒吐いて死ぬ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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