2017年03月26日

【第八夜】恩師の話。友人の話。議論の話。

「俺を眠くさせてみろよ」
そう言い放った友人は、いかにも眠そうであった。僕は彼からの挑戦を受けることにした。僕は彼が眠くなる話をしなくてはならない。僕らは今、小さな丸テーブルを挟んで椅子に座り、向き合っている。壁は上品な白で統一され、北と南に畳一畳分くらいの窓がついている。南側の窓からは柔らかい光が差し、テーブルの周囲に陽だまりを作っていた。彼は、いかにも眠そうであったのだ。肩肘をついて、判然としない程度に目を開いて、けだるい様子だ。

僕はしばし逡巡したのち、高校の頃の世界史の先生の真似をすることにした。その先生の授業の破壊力は物凄かった。生徒の8割を心地よい睡眠へと誘った。学校の硬い椅子と、高さが合わない机という取り合わせにありながら、生徒は落ちていくように眠っていった。僕はひそかに、彼は世界史の先生なのではなく眠りの専門家なのではなかろうか、と疑っていたほどに見事な睡眠の導入だった。僕は彼自身に興味がわいてしまったために、眠ることができない数少ない生徒だった。

僕は物まねを開始した。もっとも破壊力を感じたローマの賢帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世を語ることにした。その口調はなめらかに、そして大きすぎず、かといって聞こえないほど小さくは無い、絶妙な発声を意識した。話が中盤に差し掛かったとき、対面した彼は突如、目を大きく開き、勢い良く立ち上がると「俺の記憶ではもっと早口だったはずだ」と言い出した。

その刹那、僕の頭の中に、あの蒸し暑い教室の、高校二年生の、椅子に置かれた尻がうっすら汗ばむのを感じた、セミの声がどこからか聞こえてくる、まるでプールの授業のあとのような倦怠感をまとった、当時の二年二組の教室の情景が、生々しくフラッシュバックした。無論、教壇に立っているのは世界史教師、僕の斜め後ろには、世界史の授業を寝息立てずに聞き入る、その友人の姿があった。

結局その後は、眠くなるどころの話ではなくなった。もっとこんな話をしていただとか、間の取り方はこのようだった、とかそんな話を飽くまでし尽くした。活発な議論の後に訪れる心地よい疲れが、僕に次のことを確信させた。世界史のあの先生は、僕にとって、やはり恩師と呼ぶべき存在であるのだと。時が経ち、記憶が薄れたとしても、未だに僕らを笑顔にさせることができた教師を他には知らないからだ。
posted by うやうや at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢百八夜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

【第七夜】カラスの話。批判の話。世界の話。

隣の席で老人が二人、何やら話している。男か女かも峻別し辛い。容姿、声ともにしわがれて、同じように見える。無論、猫背である。
一方が言うには「奴には財産があれだけあるのに」「我々には一銭たりとも渡さない」
もう一方曰く「奴は何と欲深いのだろう」「我々には一銭たりとも渡そうとしない」

彼らは(彼女ら、あるいは彼・彼女は、等の一切の可能性を認めた上で便宜上その二人を「彼ら」と呼称することとする)自身の欲深さについては一切言及しなかった。そのことが次第に僕には腹立たしく思われてきた。自己批評の精神がまるで足りていない。世界が彼らだけならば、無論二人ともの了承があればだが、例えばカラスだって白とされてしまう予感がした。現に彼らの言う「奴」は勝手に欲深い者に仕立て上げられているではないか!

僕は彼らによって白と断定されてしまう無数のカラスのことを想った。「逃げるべきだ」僕はカラスの代表にそう提言した。代表は怪訝な顔で僕を見つめ、なぜ、どこへ、と問い返してきた。カラスの会話はいつも必要最小限、スマートだ。僕はそれについて答えることができなかった。カラスが他者から黒と認識されなければならない理由も、どこへ逃げるべきかも、つゆ知らなかったのだ。「でも」と僕は苦し紛れに言葉をつないだ。嗚呼、次の言葉が出てこない。カラスのつるっとした黒い目に僕自身が晒されていることに我慢できなくなってきた。見透かされているようだ。思わず目をつぶった。

次に恐る恐る目を開くと、そこには僕以外の何者も存在しない空間が広がっていた。僕はあたりを点検するように見回し、嬉々としてカラスは黒いと高らかに宣言した!老人どもめ、お前らにカラスを白くはさせない!宣言したのに、特に変わった様子がない。首をかしげてもう一度、カラスは黒、と宣言し直したが、やっぱり差異は認められなかった。なんということだ、瞬間的に次のことが了解された!もう二度と、カラスは僕のもとへ飛び来ることはない。カラスはこの場所に帰ってこないのだ。
posted by うやうや at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢百八夜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月28日

雑記04

なんとなくものを書きたい気分になる日のようです。だから「夢」のことを書いてみる。二重の意味で書く。「将来こうありたい自分」そして「寝ているときに遭遇する」あの「夢」について。

僕は以前文筆業で生計を立てたいと思っていた。はじめは新聞記者。たぶん小学校と中学校の間くらいの話だ。しかし新聞の、というか情報メディアの負の側面に気づいたとき、その希望は消え去った。何を伝えるか、ではなく何を伝えないか。情報統制・・・情報量の調整による世論の煽動・・・そもそも報道は真実なのか・・・中立を保った立場から書かれているのか・・・中立なんて存在するのか。ため息ひとつ。

しかし文筆に対する思いは消えなかった。毎日日記をとぼとぼ記しているだけでは、消化出来ない強い思いがあった。小説を書きたいと思うようになるまで、時間はかからず。書いては見るものの、まるでまとまりがない。というか、自分の知識の乏しさに愕然とした。何もかけない自分。
何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
―村上春樹『風の歌を聴け』
僕が切り取ることができる事象は限られていて、その中に人生に必要な教訓、いやそんな大仰なものでなくて、何かエッセンスみたいなもの、ほんの一粒書き出すことができない。(今考えれば当然の顛末なんだけど)苦悩の日々。そんなとき、天啓ともいえる文章に出会う。僕の母方のひいばあちゃんが、まだ二歳の頃に書かれた文章だ。邂逅、僥倖。
実際見た夢から、逆に小説を作り出す場合は、その夢が夢として書かれておらぬ時でも、夢らしい心もちが現われるゆえ、往々神秘的な作品ができる。(中略)このゆえにそういう小説を書こうと思ったら、時々の夢をしるしておくがよい。自分なぞはそれも怠っているが・・・
―芥川龍之介『雑筆』(大正9年10月25日)
僕はやたら夢を見た。寝れば見た。そういう体質だったのだろうか。(最近は見ないことも多くなったが)それから夢を書き留めることにした。ひきこもりは、こんなときに有利だ。(これ以外にひきこもりが有利になる状況を知らない)朝に余裕がある。それだけ。ただ夢を「こねあげる」技量がやはり足りない。粘土を見つけることはできた。だが、造形できぬ。そのもどかしさを解消するため、既に芸術的に造形されている小説を読むことが多くなった。それらを多く読むうちに、存分に魅了された。そして小説に対して作り手でありたいと思う自分が、少しずつ良き読者でありたいと思う自分にシフトしていき、ついには文学を勉強したい学問したい、というように思考が変遷していった。

それでも、やっぱり、今でも書きたいと思うことがある。青年期に抱いた大いなる希望は、そう簡単に消え去ってはくれぬらしい。
posted by うやうや at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆とも言えない何か | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

「真面目」はどこへ向かうべきか。蘇軾の「しんめんぼく」から考える。

「真面目」って結構誤解されている美徳のひとつだ。僕は残念なことに、これまで「真面目」を一番の長所だと述べる人間にあって、真に敬服することは稀だった。それは彼、彼女自身に問題があるのではなく、「真面目」の定義にそもそもの問題があるのだろう。「真面目」が本来いかにあるべきか、今から1000年ほど前の中国の詩人、蘇軾から考える回です。まずは、「真面目」を辞書で引いてみる。
1 本気であるさま。
2 誠意を込めて物事を行うさま。
―旺文社 国語辞典
これが現在使われている「真面目」の定義のようだ。一見素晴らしい特性のように思える。でも、なんだろうなあ。周囲から「真面目」と評されている人と根つめて付き合うと「めんどくせえなあ」「もっと肩の力抜いていいよー。肩の力入れる場面じゃないよー」とか思っちゃうことがあるんだよなあ。そんな経験、ないですか?そこで「真面目」を更に素晴らしいものにすべく、蘇軾の詩を見てみる。
柳は緑、花は紅、真面目(しんめんぼく)
―蘇軾「柳緑花紅真面目」
「真面目」という言葉の出典には諸説あるようだが、その中のひとつにこの詩の「真面目」がある。この中にこそ僕が理想とする「真面目」の大切な要素が含まれている。まずは解釈をしてみよう。基本的に詩なので語義に著しく反してさえいなければ自由に味わってよいのだが、僕は次のように理解した。「柳の本質は緑、花の本質は紅(あか)、このように物事の本質を真正面から見据えること」・・・皆さんはどう読みました?

「真面目」には「物事の本質とは何だろう」という積極的な問題提起、「能動的思考」の介在が必要で、それがなければ「バカ真面目」ということになりかねないと、僕は考えている。だから「思考力」を「真面目」の成分表示に加えるべきだ、と声高に主張したい。与えられたタスク、しなければならない雑務、それらを機械のように黙々とこなす、いつも肩肘張って頑張る、それらが実践できることは一種の美徳であることは認めるが、それだけではクリエイティビティ溢れる仕事はできないし、そんな人生にはならないだろう。「勤勉さ」と「思考力」が合わさった状態こそ、尊敬に足る「真面目」であると思うのだけど、わが身は中々そうはなれない今日この頃です。
posted by うやうや at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 毒吐いて死ぬ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月19日

「胸にぽっかりあいた穴」は大事にしよう、という話。

心が大きなショックを受けたとき、あるいは心がぼろ雑巾のようにダメージを負っているとき、そんなある種極限の状態で読書をすると、いつもと異なる感覚に襲われることがある。ふと目に飛び込んできた一文が、妙に心に刺さったり、信じられないほどの涙を誘ったりするのだ。これと似た体験をしたことがある人は、多くいるのではないだろうか。読書でなくてもよい。音楽でも映画でも。失恋の後、恋愛に関する曲を聴くと、異様なまでに強く慰められるということがあるそうだが、それも読書に関する上述の体験と同じ枠にカテゴライズされるものであるように思う。

そんなとき、我々がよく使う「胸にぽっかり穴があく」という表現は真に迫っていると感服する。ショックを受けた後、「胸に穴があく」のだとすれば、平時、胸には「穴は無い」ということになる。要するに、日常の多くの場合、胸の最深部は心の壁に守られているのだ。
われわれはいまではもう、心的活動の中には、一般に全く気づかれず、長いこと気づかれていない、それどころかおそらくは気づかれたことの決してないような過程や意向があるということを仮定していいのです。(中略)無意識的なものとは、たんに「その時に潜在的である」というだけの意味ではなくて、持続的に無意識であることをも意味するようになります。
―ジークムント・フロイト『精神分析入門』
心理学の大家、フロイト先生が述べているように、「心の壁」は、無意識下において、都合の良い、趣向に合うものを、勝手に選択する「選択的透過性」的性質を帯びている、と想定されるわけである。心が壁に覆われている状態では、受け取った「すべて」を心の奥に届けることはできない。読書にしても、映画にしても、音楽にしても、その持てるパワーの「すべて」を、受け取りきることは困難だ。

ところが、そんな胸に「ぽっかり穴があいた」らどうだろう。穴があいているのだから、心の深部は露出している状態になる。換言すれば「選択的透過性」の壁が機能していない状態であるわけだ。したがって、そのような心理状態の上で見聞きしたことは、平時の比にならないほどの影響力を自身に与えることとなる。

「胸に穴があく」というのは辛いことだ。しかしピンチはチャンス。いつにもまして、良く物事を吸収する時節到来といえる。(胸に吸収させる内容には吟味が必要だろうが)この時機を逃さず、湯水の如く多くの知恵を流し込めば、たちまちそれらはあなた自身の血となり肉となり、持てる知性の段階を手早く1目盛り上げることができるのではないか。僕は落ち込んでいるとき、倦怠感溢れる怠惰な自身に鞭打って、できるだけ本を読むことにしている。それも、敬愛している本だけを。他者に相談する、愚痴をこぼす、それもいい。だが「胸にぽっかりあいた穴」を癒す方法は、それ以外にもあるということ、筆者自身に重度に友人が少ないことで発見することができた、怪我の功名なのかもしれないな、と複雑な気分になる今日この頃です。

1/27 加筆改稿
posted by うやうや at 23:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 毒吐いて死ぬ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする