「わたしはここにいるよ。」
―新海誠「ほしのこえ」
私が「ほしのこえ」という作品の存在を知ったのは、つい先日のことである。一度見たそのときから、私は「ほしのこえ」について何か書きたいと強く思うようになった。まだご覧になっていない方は是非一度目を通されることをお勧め致します。
まず主人公である「長峰美加子」は次のような世界観を持っている。「世界っていう言葉がある。私は中学のころまで世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」アニメの冒頭で美加子が「携帯電話」を片手に放つ印象的な台詞である。この台詞から美加子の考え方が浮かび上がってくる。
「携帯電話」は人と人とを結ぶコミュニケーションツールである。人々は携帯電話を通じ、「言葉」を介し、コミュニケーションをとる。「携帯電話」は「言葉」なしには機能しえない。つまりここで美加子は「
言葉の外に世界はない」とつぶやいている。言葉によって人は通じ合うことができることを信じている女の子が美加子なのである。
美加子がほのかに恋心を寄せていた「寺尾昇」は、美加子が地球を離れてしばらく経ったとき「ただ美加子からのメールを待つだけの自分になってしまう」とつぶやく。この時点では昇もまた美加子のメール(=言葉)を信じている。メールは当然ながら言葉をもって書かれるものである。美加子の言葉を昇は待っているが、それはその言葉を理解できると思っているからこその台詞である。理解しえないものなら、人は首を長くして待ったりしない。早く届けと念じてメールを送る美加子、そしてそれを待つ昇。このときの二人は「言葉」によってつながることを望み、なにより「言葉」によってつながることができるということを強く信じているのである。
しかしながら「言葉」の力には限界がある。美加子が昇のことを想って送るメール。きっとそこには、底知れないほど昇への愛情がこめられているはずである。また美加子はその昇への愛情を言葉にしようと苦心し、やっとのことで作成したメールであろう。
ところが、それを受け取った昇には美加子の想いが伝わっていない。昇はただ、日に日に間隔が遠くなってくるメールのやり取りに傷心し、一喜一憂しているだけだ。
昇の中で美加子がどんどん遠くなっていく。そしてあるとき、昇は次のような決心をする。「もっともっと心を硬く冷たく強くすること」「絶対に開かないとわかっている扉をいつまでも叩いたりしないこと」「俺は一人でも大人になること」昇はこのとき気付いている。コミュニケーションの目的は相手を真に理解することではない。一定以上の頻度でコミュニケーションをとることで、安心感、お互いに理解し合えている「ような」雰囲気が得られればよいのだ、と。昇はその時点から美加子の「言葉」に縛られていた生活を捨て去る。そして宣言どおり、一人でどんどん大人になっていく。
ただ美加子のほうはどうだろう。
メールが届くのに8年もかかってしまうシリウスへワープした美加子は次のように言っている。「私はただ昇君に会いたいだけなのに」「ただ会って好きって言いたいだけなのに」自分の昇への想いは「好き」という言葉によって完全に届くことを期待している。美加子はまだ「言葉の世界」の内側に存在している。「言葉」によって互いが本当に理解し合えるということを信じている。「相手のことを本当に理解するということを望む美加子」と「そのことができないという気付きを得た昇」。8光年という距離が、二人を切り裂いたのではない。
距離によって言葉の限界、相手を理解できる限界が表出し、それによって二人は切り裂かれてしまったのである。
「私はここにいるよ」二人のつぶやきで作品は終わりを迎える。「ここにいるよ」相手に自分の存在を知ってほしい、気付いて欲しい。あるいは自分が相手のことをいかに好いているか知ってほしい。でも相手にはそれが届いていない。そんな想いから、身体の奥底から「ぽっ」と出た言葉ではないだろうか。
ここで「
『私は』と言っているのは美加子だけである」点に留意する必要がある。美加子は強く念じている、自分の存在に気付いてほしいと。それに対して昇は自分という存在を限りなく透明にしている。自分がここにいることを前面に押し出し主張している美加子と、自分という存在を限りなく透明にすることで理解されない悲劇を回避しようとする昇。二人の決定的な離別は、この認識の違いによるところが大きいのではないだろうか。
「ほしのこえ」が他のラブストーリーのように受容されにくいのは、二人は真に結ばれないという点においてである。しかし私自身、そのこと自体が「ほしのこえ」を「ほしのこえ」足らしめる「固有の価値」であると考えている。